共依存に唇を噛む

双黒の匂いにまつわる話。


 

よく知った香りが鼻を掠めた。爽やかで主張しすぎないが、次第にスパイシーな香りに変化し、ラストノートはサンダルウッドとムスクが穏やかに立ち昇る。繊細で軽やかだが、芯を感じるような香り。そして混ざり合う、僅かな煙草の匂い。思わず足を止めて振り向いたが、香りの主は太宰の思い描いた人物ではなかった。漂った香りは雑踏の中に消えていく。
期待を裏切られて落胆、あるいは安堵と苛立ち、それらが身体の奥を支配する。自分の身体であるのに、コントロールがきかなくなったゲームプレイヤーのようで癪に障る。
(そういえば、あの香水は日本でも買えるようになったのだっけ)歩き直しながら、ぼんやりと記憶を辿っていく。中也と香水を買いに行ったのは、たしか6年ほど前だった。

ポートマフィアに身を置いていた頃、中也と欧州へ遠征したことがある。一週間、ふたりきりの滞在だった。まだ国内に入っていない銃火器の商談と密輸に関する交渉が目的だったため、滞在時の護衛役として中也が選ばれたのだ。彼の同行は不要だと進言したものの、首領に一蹴された。
「念のため、ね。君も幹部になったのだから、以前のような単独行動は許されないと思いなさい」
にこにこという音が今にも聞こえそうな顔、されど目尻は冷えきって鋭い。首領に告げられた言葉を思い出して反射的に顔を顰める。
(いつまで経っても、あの人と対峙するのは慣れない)
首領に対し口答えともとれるような進言ができるのは、組織内でも太宰くらいだろう。だがその太宰であっても、森との会話はいつも、薄氷の上を歩くようなものだった。いつ割れるかわからない薄く張った氷の上を進み続けることはそう簡単ではない。

太宰の幹部昇進が決定したのはつい先日のことだった。今回の渡航は昇進後の初仕事。これからは“歴代最年少幹部”の貼り紙がついて回る。ある程度の想定はしていたものの、思った以上に周囲の目が五月蝿く──耳元で羽音を響かせる蚊のように思えて、早々にうんざりしていた。
(此処から離れられるなら丁度良いか)
中也との遠征が決定し忌まわしい気持ちもあったが、いま此処から離れられるのは好都合だった。

それから数日後に降り立った異国は、乾いた空気が肌に心地よかった。港街ということもありヨコハマは異国情緒ただよう街だと称されるが、やはり意匠の異なる町並みと行き交う外国人を目にすると、異国に来たという実感が湧いてくる。
課せられた仕事はイギリス、オランダ、フランス等、欧州の各地に及ぶため、商談を終えては忙しなく移動を繰り返す。滞在も六日を過ぎた夜、宿泊先のホテルに戻り部屋の扉を開けると、そのまま一直線に寝台へ向かい、うつ伏せに倒れ込むんだ。右の頬をシーツにくっつけたまま、緩慢にまばたきをする。薄いカーテン越しに見える夜空に満月が浮かんでいるのが見えた。
「うー……流石に疲れた……」
シーツに顔をうずめながら呟く。
「そうだな」
後を追って入ってきた中也も疲労を隠すことなく、肩を鳴らしながら同意した。
「なに云ってるの?殆ど私が交渉してるじゃない!中也が疲れるなんてことある筈がない」
「今日の商談で俺が通訳してやったのを忘れたのかこの糞青鯖」
フランス語、オランダ語は太宰の領分なのだが、イギリス英語だけは中也が得意だった。
「こっちの英語はどうにも聞き取りづらいんだよ。ということで明日も宜しくね……」
「おい手前、そのまま寝てんじゃねェ!」
云い逃げたまま眠ろうとする姿を見た中也に咎められるが、構わずシーツの海に潜り込む。
(……明日でこの滞在も終わり)体を丸めながらひとりごちる。連日の移動続きで身体が疲れきっているが、明後日にヨコハマへ戻る事を思うと、頭もずきずきと痛みだす。指先が冷えていく感覚に気づかないふりをして、無理やりまぶたを閉ざした。

最終日はフィレンツェでの商談だった。昨夜の宣言通り通訳は中也にまかせ(本人は不本意そうだったが)特に問題もなく交渉を終えることができた。予定よりも仕事が早く済み、チケットを取った飛行機が発つまで暫く時間があった。ひとまず休憩をと云う太宰に中也も同意し、手近なカフェに立ち寄る。昼食をとっているときに、中也が切り出した。
「一寸、寄りてェ所があるんだが」
「構わないよ、暇だし」
少し目を見開いて、何か言いたげな表情をしている。
「尋ねておいて何故驚くの」
「手前のことだから、拒否する理由を並べ立てでもするかと」
中也の言う通り、いつもならそうだったのかもしれない。仕事から解放されて時間を持て余した今、太宰はこの地を離れる名残惜しさをどこかに感じていた。日本から遠く離れた異国、自分たちを知るものは居ない場所、その土地に中也とふたりだけで立っている。
「……気紛れだよ」
中也から目線を外しながら答えた。返答の仕方を間違えたなぁと思いながら。

カフェを後にした後、フィレンツェらしい町並みの中、石畳を鳴らしながら歩く。
「ねぇ、どこに行きたいの?」
「欧州で一番古い薬屋」
「薬屋?どうしてまた」
「その店に置いてる香水が欲しい」
日本では買えないからな、と続ける。中也の話によると、かなり古くからある店らしい。薬屋として始まった店は、薬草栽培から香水や石鹸の製造に発展したそうだ。

暫く歩いて人の姿もまばらになった静かな場所に、重厚な雰囲気の建物が現れた。バロック様式の建築で、色大理石によって装飾された重厚感のある壁面が続く。歴史を感じる佇まいだが大切に手入れされているらしく、美しい姿を保っている。どっしりとした重さのある扉を押し開き足を踏み入れると、正面のカウンター越しに人の姿が目に入る。店主らしき白髪の紳士がこちらに気付き、僅かに腰を折って微笑んだ。柔和で人当たりの良さそうな笑顔。
「王家御用達の店だそうだ」
声を落とした中也が呟く。
「由緒正しい店だね。私たち追い出されないかな」
「手前が折り目正しくしてれば問題ねェ」

先ほどと変わらぬ笑みをたたえた老店主が、カウンター越しに私たちへ声をかける。
「なにをお求めでしょうか」
「香水を探していて」
「お好きな香りなどはありますかな?」
「いや、余り詳しくないんだ」
「畏まりました。いくつか嗅いで頂ければ、好みも分かってくるかと存じます」
店主は慣れた手つきで、数本の硝子瓶を戸棚から取り出していく。円柱の硝子瓶にはシンプルなカットが施され、白光を纏ったように輝いている。瓶の中央に店の紋章が描かれたラベルが小さく貼られていた。店の雰囲気を体現する落ち着いた意匠。
金色の栓を外してムエットへ吹きつけたものを中也へ手渡し、好みの香りを選り分けていく。ひとつずつ其々の特徴を伝えながら、中也の表情をよく観察している。仕事がとてもできる人のようだ。東洋人の年若い子どもに対して真摯に接してくれているのがわかる。

中也が香水を選ぶ間は特にする事もないので、ゆっくりと店内を見渡した。正面の壁には花を象ったようなステンドグラスが嵌め込まれており、硝子越しに届くきらきらとした光が、大理石の床に柔らかく降り注いでいる。ドーム状の天井を仰げば、フレスコで描かれたらしい天井画が見えた。店の四隅には裸婦の彫刻が飾られている。両側の壁一面に大きな薬棚が並び、硝子戸の奥に商品が整然と陳列されていた。多くの香水があるのに、不快に感じる匂いが不思議と漂っていない。まさしく由緒正しく、細やかで整った店。
私たち以外に客のいない店内で耳に届くのは、中也と店主の話し声、時折硝子瓶がぶつかり合う音だけだった。静かで心地よい空間。深呼吸をするように、細く長い息を吐き出す。

カウンターにいる中也を見やると、香水をいくつかの種類に絞ったところだった。
「少し試してみても良いだろうか?」
店主の許可を得て、手袋を外した手首に少し吹きかける。表情を見るに、かなり気に入っているらしい。
「決まったの?」
問いかけながらカウンターに近付いて、中也の手を取った。
香水を吹きつけた手首に指を這わせる。細いのに筋肉質で少し骨ばっている、整った手。明らかな意図を持って、中也の手首に自分の指先をつつ、と滑らせた。爪の先で肌を少し引っ掻いてから、鼻を寄せて静かに匂いを吸い込む。
「ああ」
ひと呼吸置いて、言葉を空気に乗せる。
「私、これ嫌い」
笑顔を貼りつけて中也に告げる。心底腹立たしそうな表情に変わった中也は指を振り払うと、先ほどつけた香水を示して「これを頂きます」と店主に告げた。
「なんだ、私の意見は聞いてくれないのかい?」
「手前と酒以外で趣味が合ったことなんて一度も無ェ」
「ふふ、そうだったね」

中也が購入した香水を包装しながら、店主が声をかけてきた。
「そちらのお客様は、なにかご入用では?」
「いやぁ生憎、香水にあまり興味がなくて」
肩をすくめて答えてみせる。
「他にも石鹸やボディトリートメントがございますよ」
どう躱そうかと逡巡していると、横から中也が割って入ってきた。
「石鹸を見せて貰えますか」
「えっ、私は買わないよ?」
「どうせ俺の家に置いといたら手前も使うことになるだろ」
「それはまぁ……そうだけど」
否定はできない。幹部になる暫く前から中也の部屋をよく訪れていた。最初は悪戯を仕掛けるために行っていたのだが、次第に入り浸るようになり、今や半同居状態だった。
「どの品も天然素材を使用した肌に優しい石鹸です」
時代がかった木箱から数種類の石鹸が取り出される。香水瓶のラベルで見た紋章が、石鹸に型押しされていた。
「左のものは爽やかな香りが特徴です。どちらかといえば、すっきりとした洗い上がりかと。その隣の品は比較的近い匂いで、果実の香りがします」
中也がひとつずつ手に取り、香りを確かめていく。
「そちらは泡立ちと保湿力に優れていますね。肌に潤いを与えてくれます」
少し甘めのアーモンドが香りますが強い匂いではありません、と続ける。
「あー……これにします」
最後の石鹸に決めたようだ。
「全く悩まなかったね」
「まァな。直感だ」

支払いを済ませて商品の包装を待っていると店主が、年寄りの独り言ですが、と前置いて話し始めた。
「“香り”と“記憶”には、特別な繋がりがあります」
「……プルースト現象と呼ばれるものだね」
応えた太宰の目を見つめながら頷いて、言葉を続ける。
「人間の脳は情報を処理する大脳皮質と、本能や情動、記憶を司る大脳辺縁系に大きく分かれています。五感のうち視覚、聴覚、味覚、触覚は大脳皮質に伝わりますが、嗅覚だけは大脳辺縁系に直接伝わります。それ故、人の記憶や感情は香りに影響されすいと云われております」
商品が入った紙袋を中也に手渡し、ゆったりと微笑んだ店主が深くお辞儀をする。
「この香りが、おふたりにとって良き思い出になりますように」

店主に礼を述べて店を出る。離陸時間が迫っていた。

相棒関係を組まされた私たちは、ヨコハマに戻ってからもふたりきりの任務が続いた。ただひとつ、遠征前と後で変わったことがある。フィレンツェの薬屋で嗅いだあの香水が、いつもすぐ側で香るようになった。普段から人の存在に比較的敏いほうだと自負しているが、あの香りが呼び水になって、よりはっきりと中也の存在を認識するようになってしまった。香水によって中原中也の輪郭が強調される。会議中も作戦中も、同じ部屋にいる時も。
昨日のことだ。眠りから目覚めて身支度をする中也を、寝台の中からじっと眺めていた。彼はスラックスに足を通す前、膝裏のくぼみと腰の低い位置に香水を吹きかける。それぞれ一押しずつ。
匂いのきつい種類ではないし、つけ方も控えめだと思う。ただあの香水は──長い時間をかけて、ゆっくりと周りの空気を染めていく。
あの時嫌いだと告げた、あの香水が隣で香ることに何処かで安堵している自分がいる事に気付いて、舌打ちした。

 

 

大詰めを迎えた仕事が一段落し、早めに帰宅できそうな日だった。部下へひと声かけて拠点を後にする。足早にセーフハウスに戻ると、室内はあちこち照明が点いていて、風呂場から水が跳ねる音も聞こえてくる。この家に堂々と入ってこられる人物は一人しかいない。太宰には合鍵を渡してある。
身につけていた帽子や手袋をクローゼットにしまい、リビングに向かう。持ち帰った書類仕事を終わらせるために、ソファに腰掛けてタブレットを立ち上げる。溜まっていたメールに目を通していると、風呂から上がった太宰がソファの前に腰を下ろすところだった。黒鳶色の髪からぽたぽたと落ちる雫が、ラグにしみを作っていく。
「ちったァ髪を拭いてから出てこい」
もう何度目か分からない。呆れた声が出た。
「ええ〜面倒臭い」
手元のバスタオルを奪い取って、ぐっしょりと濡れた髪から水分を吸い取るように拭いていく。今日はもう仕事にならないだろうと当りをつけ、操作していたタブレットは電源を落としてセンターテーブルの脇に置く。ついでに立ち上がり、洗面台からドライヤーを持ち出してリビングに戻る。太宰の髪を乾かすのはいつの間にか中也の役割になっていた。習慣になったという表現をしても良いかもしれない。とにかく髪は乾かさないし身体を拭くのもいい加減で、風呂上がりの太宰が歩いた後の床は大抵濡れている。
ドライヤーのスイッチを入れ、髪に風を当てながら内側から外に向かって手早く指で梳いていく。熱で髪が痛むのを防ぐため、送風口は近づけすぎないように注意する。最後は冷風に切り替えて全体を整える。
乾かしている最中の太宰は目を瞑り、うつらうつらとしているようだった。

乾かしたばかりの髪をゆっくりと掬い取り、顔を近づけて匂いを嗅いだ。
「……手前はほんとに、」
「唐突になに、どうしたの」
眠さでぼんやりしているのか、少し呂律が怪しい。
「……なんでもねェよ。早く寝台行け」
云うつもりの無い言葉がこぼれかけたことに少し焦る。悟られないように、早く眠るよう促した。太宰は怪訝な表情をしていたが、たゆたう眠気に抗うことはできず、欠伸をかみ殺しながら寝室に向かっていった。

太宰は匂いがしない。常にそうだ。風呂上がりなら石鹸の香りでもしそうなものだが、体質のせいなのか、匂いが極端に薄いのだ。普段はうんざりする程に存在が煩い(互いに口喧嘩もしょっちゅうだし)。近くにいれば否が応でも存在に気付いてしまう。恐らくそれは太宰も同じだろうと思っているが、これは殆ど確信に近い。
だがふいに、その存在が希薄になる時がある。先ほどのような──身体は触れているのに匂いを感じ取れず、ひどく遠くに離れているような心地になる時。あるいは昔、相棒だった頃──作戦中に銃火器の雨の中でひとり佇んでいる時。死にたがりの太宰は銃弾で怪我こそすれど、只の一度も死ねたことはなかった。この世の誰より死を渇望するのに、誰よりも死神に嫌われている。
小指の一本、あるいはせめて服の裾だけでも、この手に掴んでおきたい気持ちに駆られたこともあった。

太宰とふたり、欧州へ遠征した時も似たようなことを思った。最終日、空いた時間に香水を求めて店を訪れた際に、予定になかった石鹸を購入した。
僅かに甘い匂いのするあの石鹸を使えば、奴にも少しは香りが残るんじゃないかという考えがよぎったのだ。安易な考えだったのか、結果的にそうはならなかったが。

(莫迦げてる)
今振り返っても、らしくない思考。頭を振って打ち消す。しかし当時の中也は、そうなればいいと願っていた。
あの頃の太宰は幹部になったばかりだった。表には出さないようきれいに隠していたが、周囲の視線に当てられて少なからず疲弊しているようだった。そのことに気づいたのは滞在六日目の晩、宿に戻った時の姿を目にした時。その日着ていたスーツ姿のままシーツに潜り込む太宰の背中。今思えば、あの日はいつもより本能的な勘が冴えていた気がする。とはいえ気付いたからと言って、何をしたわけでもなかったが。優しい労りを与え合う関係ではない。
肺の中に残った空気を吐いて、浴室へ向かった。眠る準備をしなければならない。

今も昔も変わらない。執着が見え隠れする。離れたいのに離れられない、呪い。