呼び名について

「ご就任、お目出度うございます首領」

「首領、おはようございます」

「コートをお預かりします、首領」

「首領、こちらへどうぞ」

「流石ですなぁ、ポートマフィアの首領は」

「首領は素晴らしい手腕をお持ちだ」

「首領」

「首領」

「首領」

「首領」

視界に入る人間が、私の姿を見ると口々に話し出す。

(煩わしい)

首領に就任してから1日と経たず、言い寄ってくる人間がばかみたいに増えた。蛆虫のように湧いて出てくるさまに心の底から辟易する。人当たりの良い笑みを向けつつ最低限の会話で済ませる術は心得ているが、どうにも数が多すぎた。部下も、客人も、取引先の役員も、耳障りな音しか発さない。それでも両の耳は、音を拾うことをやめないどころか、ますます過敏に反応するようになってしまった。

貼りつけた薄っぺらい笑顔が剥がれ落ちそうになるのを、すんでのところで留める。取り繕うことを止めてはならない。これはもう癖みたいなものだが、それすらも危うくなることに、恐れを感じた。
たった今もそうだ、目の前に居る人物の輪郭が曖昧になる。口の動きが段々とスローモーションになる。声は次第に聞こえなくなるのに、音が脳裏にこびりついて離れない。

(五月蝿い)

別段、首領になったことを負担だとは思っていない。負うものは増えたし考えることも多岐に渡るが、それはごく当たり前のことで、重みにもなり得ず、大したことではなかった。
それが何故今になって。只の呼称で。
剥がしたシールの跡に残る粘着剤みたいにねばついた手触りがあって——静かな嫌悪感だった。

* * *

正しいノックの回数に続いて、失礼します、と声が響いた。その声は、大きすぎることもなく、聞こえにくいものでもなく、静かに、ただ確実にこの部屋の空気を震わせた。

声を聞かずとも、扉を叩くリズムで、そこにいる人物が誰なのかは分かっていた。

(……苛つくなあ)

ノックひとつで当たり前のように気付くこと、ノックのリズムに心が落ち着くこと、そして何よりも、そういう反応をする自分自身に苛立ちを覚えた。
入室の許可を出すのも癪で、黙ったままでいた。頬杖をつきながら扉の向こうを見遣る。首を傾けた拍子に垂れ下がった前髪が視界を遮った。

今は顔を合わせたくなかった。

「失礼します」
無言の返答を是と受け取ったのか、扉を押し開いた男は部屋の中へ進み、机から離れた位置に足を止めた。距離は4メートル。続く言葉に空気が震える。

「首領就任、お目出度うございます」

片手に持った帽子を胸元に寄せる。恭しいお辞儀。流れるような動作。
それ以上は見ていられなくなって、視線を目の前の書類に移す。
黒い文字列が並んだ白い紙。重要な取引先に関する契約書だと、5分前に部屋に来た部下が話していた気がする。最早その記憶はぼんやりしていて、本当に大切な書類だったかもわからない。覚えていないのだから、破り捨てても良いだろうか。
どうでも良いことが目の前に溢れていて、泥水を飲んだみたいに胃の底が重ったるい。

(中也に会うのは1週間ぶりか)

北へ遠征に行っていたことを思い出す。就任後に中也に会うのは今日が初めてだった。
先に声を発した中也に返事をしなければならない。いつも通りに、早く、厭味を、今すぐ。

「なに、そのばかみたいな挨拶」
乾いた笑いが聴こえた。これはどうやら私の笑い声らしい。まるで己の発したものではないように思えた。

「お祝いを申し上げるのが遅くなってしまいましたので。首領就任、心より祝福申し上げます。」

耳にした瞬間に虫唾が走った。中也の言葉に、どうしてこんなにも苛立つのだろう。この1日の間に感じた苛立ちや煩わしさを上塗りされたようで、吐き気すら感じる。

(中也を苛立たせるのは私の役目でしょう)

彼をこのまま放っておいたら、膝を床につけて平伏してしまうのではないかという考えすらよぎった。
ただただ気分が悪くて仕方がなかった。

「用件がそれだけなら出て行って」
視線は書類に落としたままで云った。その視線は文字を追うのに、それらは只の記号でしかなくて、何の情報も得てはいなかった。
目を合わせなくても、見つめられていることはわかる。視線の方向など、今更視覚で気づくようなものではない。

「顔色が悪いようですが、ご気分が優れませんか?」

「お願いだからその喋り方を今すぐやめて」
早口になる。意思に反して口は動いている。

立場が変わると同時に、私達の相棒関係は解消された。前首領の意図によって。特に逆らう理由も見当たらなかったので、あっさりと受け入れた。
この世の何よりも嫌いな男と相棒だったことが過去になるならば、別にそれでよかった。それなのに、なぜ。

「中也は『太宰』って呼んで」

(おかしいな)
そんなつもりはなかったのに、なんて疑問符が転がり出る。思った以上に冷たい声が出た。
馬鹿みたいだなと内心で己を嘲笑う。
馬鹿だなって笑い飛ばして欲しい。目の前の男に。

「……今まで通りがいい」
私の言葉を聞いて中也は小さく息を吐いた。

(君はこういう時に限って笑ってくれないね)
昔からそうだった。思い通りに動いてくれるのは作戦の時くらいかな。

絨毯を歩く足音が次第に近付いてくる。足音が止んで、静かな声が降ってきた。
「太宰」

名前に引き寄せられるように、顔を上げる。
新しく誂えられた執務室で、中也と私は向かい合う。一週間ぶりに視線が交わる。

「太宰」
「……聞こえてるよ」

ああ、そうか
執着していたのは、私だったのか

「此方来い」
いつの間にか私の脇に立っていた中也に、右腕を捕られていた。ぼんやりと掴まれた腕に視線を投げると、空いた手で執務机に帽子と手袋を置いているのが見えた。
椅子から立ち上がらされて、隣室まで引きずられながら歩いていく。
「……ねぇ、まだ仕事あるんだけど」
「はっ、手前の口からそんな言葉を聞く日が来るとはな」

いつも通りのやりとりで、いつも通りの言葉遣いで、底辺を這うようだった気分が少し上向いていく。なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。
いつの間にか手を握られていて、男の手は私のよりも一回り小さくも骨ばっていて、柔らかくもないのに、手袋をしていない肌に触れていたくて、握る手にわずかだけ力を込めた。
(気づかれたくないなぁ)

ふたり分の足音が隣室へと続いていく。中也が扉を開け放ち、中央に据えられたソファへと迷いなく向かう。

「わたしは首領だよ」
腕をぐっと引かれて、 勢い任せにソファに座らされた。クッションの効いたスプリングが力無い身体を受け止めて、ぎしりと音を立てた。

「知ってる」
目の前に立つ影を見上げる。露草色の冴えた瞳が私を見下ろしていた。中也がなにを考えているのか少しも読めないことに、じわりと焦りを感じた。いつもなら分かるのに。背筋を汗が伝ったのが分かった。
震え出してしまいそうなくらい寒いのに、頭は逆上せたように熱い。

けどな、と言葉を切って私の首元に手を伸ばす。
「書類仕事もまともにこなせないような奴が云えた台詞じゃねェよ」
ネクタイの結びを緩く解くと、私の肩を押してソファに身体を寝かせた。

「一寸、横になってろ」
「ッ、厭だ戻る」
中也に図星を突かれて素直に受け入れる筈もない。一度はソファに預けた身体を叱責して起こそうとしたが、直ぐに肩を掴まれてソファに縫い止められた。

有無を云わさない強い声が聞こえる。
「いいから黙って横になってろ」
ソファに背中を付けられた衝撃でぐっと目蓋を閉じた。それでも瞬き程度の一瞬のことだったように思う。直ぐに目を開けようとしたら、影が降ってきた。
中也の掌が私の双眸を覆う。

「頼むから」
思わず息をのむ。痛い声だと思った。つきりと刺すような静かな痛みを孕む色。
さっきと全然違うじゃない。どうしてそんな声をしてるのと聞きたかったのに、喉は震えるだけで声にならなかった。
暗転した視界の中で闇雲に手を伸ばすと、再び腕を捕られた。するりと手のひらに中也の指が滑り、絡めとられる。そうしてぐっと握り込められた。思いもしない強さで、指がぴくりと跳ねた。手のひらの熱が次第に私へと移っていく。

急激に目蓋が重くなる。額まで覆う掌は温かくて、細く息を吐いた。
そこからの記憶は途切れた。珍しく夢を見ることもなく、深い眠りだった。