フィーリアが好きです
麗らかな春、という表現が適しているような日だった。柔らかな風が頬を撫でるように通り過ぎていく。木々の隙間から漏れる光が目に眩しく、影が恋しくなって帽子のつばを少し傾けた。4月になって気温もぐっと上がり、暫く歩けば少し汗ばむ程だ。羽織っていた外套を腕にかける。
辺りを飛び交う蝶は蜜を求めて花の中を舞い、頭上の枝で羽を休める小鳥はさも嬉しそうに囀っている。様々な生物が暖かさに呼応し蠢き出す季節。職業柄、日が高いうちは家で休んでいることが多いが、まれに日の光が恋しくなる。今日はそういう日だった。いつもなら車に乗るところだが外の空気を吸いたいような気もして、軽く散歩でもするかと思い立ったのだ。
桜が立ち並ぶ川沿いの道をのんびりと歩く。薄く桃色に色づいた桜は見頃を少し過ぎた頃で、所々に青々とした葉を覗かせている。風に乗って散り落ちた花弁が緩やかに川を流れていく。散り際の花に人々の興味は失われたのか、周囲に桜を見る人影もない。現金なもんだな、と苦笑する。
折角だし少し眺めていくかと、橋の手摺に肘を預け、取り出した煙草に火を着ける。
煙を薄く吐き出しながら、ぼんやりと景色を眺めていたその時。目の端に砂色を捕らえた。唖然とする。人が心地よい気分になっているところを目敏く見つけたのか、果たして只の偶然なのか。何時だって邪魔をするかのように現れる。
川の水に身を浸したその男は、散り落ちた桜の花弁に塗れた姿でゆるやかに流れていく。春になったとはいえ水温は未だ低いこの時期に、さも心地よい湯に浸かっているかのような穏やかな顔。そういえば海外にこんな絵画がなかっただろうかと思い出す。ドレスを着た年若い女が、水草や花に囲まれて水の中に浮かぶ姿を描いた絵。
早く立ち去らなければと思う。このまま此処にいても碌なことがない。携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し付ける。踵を返そうとした瞬間、水面にぷかりと浮かびながらうっそりと微笑む、太宰と目が合った。唇の動きを読んでしまった。何と云ったのか分かってしまった。
[ああ、死に相応しい良い日だ]
瞬時に理解した自分の頭を殴りつけたい。それと同時に腹の底が沸き立つような怒りを感じた。
その瞬間、太宰の頭が水の中に沈む。
「……糞ッ」
欄干に足を掛けて川へ飛び降りた。こんなところで異能を使いたくはなかったが、致し方ないと意を決し空を駆ける。水面上から太宰の腕を掴もうと手を伸ばすが、脱力した身体は水の流れに翻弄されてうまく捕らえられない。水流を操作し、少しばかり浮かんだ腕を掴んで引っ張り上げる。煩わしくて、そのまま川縁に投げ捨てた。水を吸って重くなった衣服が、べしゃりとだらしない音を立てる。
「ッ、げほ、がはっ……」
水を吐き出す太宰を眺めながら溜め息を零す。手を出して、助けてしまったという後悔がじわじわと身体を蝕む。
咳き込みながら太宰が緩慢な動きで身体を起こす。ゆっくりと視線が交わる。目の奥に鈍く光を灯している。口の端を歪に引き上げる。そうして此奴は、何もかも知り得たような顔をしてこうのたまうのだ。
「ああ、また死ねなかった」
了