案内された部屋の中央に豪奢なテーブルセットが鎮座する。大きすぎるそのテーブルに広げられたクロスには手の込んだ細やかな刺繍が施されていたが、それを覆い隠すように大小様々な皿が載せられていた。
テーブル上から、白い湯気がふわりと立ち上る。
「さぁ、太宰様も召し上がってください。私の自慢のシェフが腕によりをかけて作りました」
そう話す男の黒髪は光を照り返すほどの整髪料が使われ、一切の乱れがない。
にこりと微笑み返し、相手の言葉は適当に流す。目の前の男がなにを喋ろうとも、どうでもよかった。どうせ数時間後にはこの世に居ないのだ。只の肉塊に成り果てる男に元々興味はない。相手が望む茶番に付き合ってやったまで。
勧めを無視するのは茶番にそぐわないしなぁと、皿に並んだ半球体を口に運ぶ。
あゝ味がしない。まぁそれはそうか、只の立体物だし。
切り分けられた小さな三角形をフォークで刺した。ぐにゃりとした触感が金属を経由して指先に伝わる。気持ちが悪い。私はいま何を食べているのだろう。なにをしているのだろう。フォークの先にぶら下がった物体を、口に運ぶことさえ躊躇ってしまう。
目の前に広がる風景がひどく遠いものに感じられる。何もかもが遠い。目に見えるものは薄い紗衣で覆われたようにも思えるし、カトラリーが皿に当たる音も、趣味の悪い背景音楽も、どこか遠い外の世界から聞こえてくるようだった。
食事の際に感じるそれらは、今に始まったことではない。食べる行為は快楽にはなり得ず、苦痛だと感じるものだった。朝昼晩と24時間の中で義務化された行動に、ものを食べること自体に、楽しさや喜びを覚えたことがなかった。
そのことを悲しいと思うこともない。余りにも当たり前で、ごくごく普通のことで——誰か摂る食事が楽しい、ご飯が美味しくて幸せ等と、感情が動く行為ではなかった。
「お口に合いましたか?」
思考を遮った声に顔を上げる。ヒトの形をした影が、私に話しかけていた。
「ええ、とても」
人当たりの良い、薄い笑みを浮かべてやる。
(とても——食べられたものではありませんね)
* * *
「何それ」
「お中元」
「……お中元」
「そうお中元」
暇潰しに嫌がらせでもしに行こうかと思い、中也の執務室を訪れれば、彼の手の中には、小ぶりな桃の実が収まっていた。
よくよく考えなくとも分かることだった。ポートマフィアの幹部はフロント企業の役員も兼任している。外面はクリーンな企業として機能しているため、取引先から夏の贈答品として贈られるのだ。
浅い皿にいくつか盛られた白桃は、部屋に甘い香りを漂わせている。
中也は、まさに今食べようとしているところだったのだろう。彼の手に収まる果実は、薄い鴇色を身に纏い左右対称の整った形をしていた。どうやら一等品らしい。
ペティナイフで手早く実を切り皮を剥いていく。皮の下からは、ちょうどよく熟れた、つやつやと光る実が現れた。
「ま、こんなもんだろ」
皮を剥くのもそこそこに、桃を口元へ運ぶ。伏し目がちに桃を見つめる中也から目が離せなくて、その様をじっと見つめていた。唇の間から白いエナメルと赤い舌がこちらを覗いた。
じゅわりと、実を齧りとる瑞々しい音が、鼓膜を超えて、頭を揺らす。
中也は、大きくかぶりついた口の端に垂れ落ちた滴を親指で拭った。拭った雫が指を伝う。指を這う果汁を舌で舐めとった。
口の中で唾液が溢れて、行き場をなくしたそれを喉の奥に押し込んだ。生唾を飲み込む、という表現が適しているような気がした。
こくりと喉が鳴る。
「ん、うまい」
口から思わずこぼれ出たみたいな、呟く様なその声を、私はずっと忘れられないだろうなと思った。
瑞々しく美しい実はどんどんと齧られ、咀嚼され、小さくなり、終いに全て中也の口の中へ消えていった。
気づけば、盛られた桃に手を伸ばして、ひとつを攫っていた。ふわふわとした産毛の感触の後に、ひやりとした温度が手のひらに伝わる。きっと中也の部下だ、最もおいしいタイミングで食べられるように冷やしたものを持ってきたのだろう。
手の中を転がる桃の匂いは、部屋中に漂っていた甘い匂いを鍋でぐつぐつと煮詰めたような濃さをして鼻腔をくすぐった。 その匂いに当てられて、めまいがした。
「……私の分も剥いて」
鋭い目が、じとりとした視線を投つける。
「皮ごと食えよ」
「中也だけずるい、皮なしで食べたい」
「ンだよ手前で剥けよ」
悪態を吐きつつも、彼の左手は新たな桃へと伸びていた。
口汚く罵り合うことは多けれど、彼がなんだかんだ私に甘いことは、私がいちばんよく分かっている。
少し押しただけで傷んでしまう、柔らかな実を潰さないように、繊細な力加減で器用に剥いていく。
先程よりも心なしかゆっくりと皮を剥く姿に焦れったくなって、それ同時に急激に胃が空腹を訴えている、ような気がした。ずいぶん久しぶりの様な、或いは初めて感じる様な欲求に少し驚く。
(お腹が空いた、なんて)
いつぶりだろう。
* * *
部屋に入ってきた太宰を見て、ほんの少しぎょっとした。顔に出さない様に意識したが、勘付いただろうかと思案する。
まっすぐ執務机に向かってくる様子を見るに、中也の思案には気づいていない様だった。
(……この前の任務から、殆ど食ってねェな)
いつもより少しだけ、歩き方が覚束ない。本人ですら認識していないような、僅かな違和感だったが、いつにも増して血の気のない白い顔を見て確信する。
太宰は単独で動いている任務も多い。外面が良く人当たりも柔らかいため、渉外を任されることもザラだ。
先日の仕事は某企業の役員と食事会だと云っていた。
(まァ……いつものことだな)
次の任務に支障が出なければそれで構わないし、例え飯を食えと云ったところでこの男が云う通りにする訳もない。
太宰はどうせ暇潰しに此方へ来たのだろう。出かかった溜息は噛み殺して、目の前の桃に視線を戻す。
「何それ」
「お中元」
「……お中元」
「そうお中元」
あゝ、タイミングが良かったなと思う。
太宰は進んで食事を摂る奴ではない。食べることが自分にとって必要な行為だと思っていない様だった。
知り合った頃はそのことに気がつかなかった。食が細い奴で、食べないことも多く、ひょろひょろの薄っぺらい身体に巻き付けられた包帯が、酷く滑稽だと思っていた。
(変わったのはあの頃か)
俺が作った食事を一緒に食べたことがある。その時は出したものを完食して、内心ではかなり驚いたことを覚えている。その日以降、俺が食べているものを横取りする様な形で摂っていくことが当たり前になった。
恐らく本人は嫌がらせの心算なんだろうから、体裁上怒りはする。だが常に、少しだけ多い量の食事を用意して食べる癖がついてしまった。
それから太宰が幹部に昇進し、食事会が増えるにつれ、また少しづつ、食べる量が目に見えて減っていた。量そのものだけでなく、太宰が食事を摂っているという所を見ることがなくなった。
だから、タイミングが良かった。俺が食べていれば、此奴も手を伸ばすだろうと思ったから。きっと、もうすぐ。
昔のことを思い出しながら黙々と食べていると、太宰が口を開いた。
「……私の分も剥いて」
予想通りになった。笑い出したい気持ちをぐっと堪えて、太宰の顔を睨みつけた。
「皮ごと食えよ」
「中也だけずるい、皮なしで食べたい」
早く食べたいくせに、我儘ばかりだ。
「ンだよ手前で剥けよ」
果てしなく面倒くさがりな此奴が皮を剥くはずもなく、仕方なく再びナイフを手に取る。仕返しでもしてやるかと、気まぐれに先程よりも時間をかけて丁寧に皮を剥く。焦らす様に、柔らかい実にゆっくりと刃を入れる。剥き残しが無いように十分に確認してから、等分に切り分けた。手のひらに滴る果汁は、どこまでも甘い匂いがした。
カットした桃をガラス皿に盛って、太宰に押しつける。太宰は満足げな顔で皿の一切れを手に取り、口へ運ぶ。噛んだ桃の果汁が腔内にじわっと広がったのだろう。少し目を見開いて一瞬動きを止めて、また静かにもぐもぐと咀嚼し始めた。ごくりと飲み込んで、小さく息を吐いて、次の一切れに手を伸ばす。
伸びてきた指先を視界の端に収めてから、懐から煙草を取り出す。
緩く上がった口角を隠す様にして、煙草に火を付けた。
了