悪辣な人

BEASTで首領の世界線 少しモブ要素あり 嘔吐


 

毛足が長い絨毯の上を、重ったるく間抜けな音が滑っていく。ずる、ずる、ずると、さながら死体の入った袋を引きずっているような音だった。
廊下に長く伸びる真紅の絨毯を硬い革靴が逆撫でて、二つの線を引いている。やたらと広いホテルの中で、歩行もままならない男を怪しまれずに運ぶには無理があると、肩にのし掛かる重みに思わず舌打ちした。いつにも増して太宰の長身を苦々しく思う。

今夜は製薬会社主催のパーティーに招かれ、太宰の護衛として参加していた。表向きは大手製薬会社だが、その実態はポート・マフィアのフロント企業のひとつだ。ただ近頃思わしくない話が上がっており、調査も兼ねての出席だった。
「主君に仇なす不届き者は、早々に刈り取らねばね?」
にこにことたちの悪い笑みを浮かべる組織の長は、全て見通した上で俺に肩を預けている。
━━それこそたちが悪い。

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「おい糞太宰、耐えろよ」
手洗い場は未だ遠い。郊外に建つ名の知れたホテルは、歩き回るには骨の折れる広さだった。
想定よりも身体の拒否反応が大きい。が、今後のことを考えると薬を慣らす意味合いでは吐かないで耐える方が良い。このまま薬剤を身体に行き渡らせたいところだが、どうも雲行きが怪しい。耐えさせるには、ギリギリのところか。

「さ、すがに、むちゃ……云わないで……よ……」
うぷ、と喉元まで迫り上がった酸味に眉根を寄せる。
「分かった上で飲んで俺を連れて来させたんだろうが」
全部見通した上で自ら選び取った選択だろうよと、嫌味を込めて吐き捨てる。つい先刻、調査対象の男の手によって、きっちり薬を盛られてきたのだ。現場の証拠はきっちり押さえ、製薬会社の男は部下に引き渡した。1時間もしない内に顎の骨が砕けていることだろう、つつがなく。

思考を戻す。太宰を抱え上げるのは得策ではないと判断し、肩だけ貸すに留めた。頭上に胃の中のものを撒き散らされるのだけは願い下げだ。
無駄に質のいいスーツは滑りが良く、一歩進むたびいちいち太宰がずり落ちそうになり閉口する。
「ちっちゃな蛞蝓だから、さ、さえにも……ならなっ、い、ね」
「それだけ無駄口を叩けるなら大丈夫そうだなあ?」
掴んでいる脇腹をグッと抑えると、口を閉ざして身体を硬くした。流石に黙ることを選んだらしい。なかなか強めのお薬が効いていて結構なことだ。

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「うっぐ、あ、ぇ、」

「ったく、」
悪態が口をついて出るのは仕方がない。
「は、ッ………う…………かはっ………」
どうにか辿り着いた部屋の扉を力づくで開けて、トイレを引きずり込む。便器の蓋を開けたその瞬間に、太宰の口から逆流した胃液がぼたぼたと流れ出た。しばらく止まることもなさそうな勢いだった。
自分自身は胃腸が弱くなく、たとえ呑み過ぎたとしても嘔吐することは殆どないのだが、太宰の近くにいると否が応でも対処に慣れてしまう。心底いやな慣れである。
一先ずトイレに辿り着いたので、太宰を残して個室を出た。

「失礼します」という声の方へ顔を向けると、黒いスーツに身を包んだ体格の良い男がこちらを伺うように立っていた。
「お持ちしました」
太宰の直属部隊に所属する男だ。彼の手にはペットボトルが2本。ミネラルウォーターと経口補水液だった。
「ああ、悪いな」
気が利く部下で助かる。おそらく近場の店へ走って手に入れて来たのだろう。額にはうっすらと朝が滲んでいた。
太宰に付き従うことがどれほど面倒なことか、考えずともわかる。労いの意味を込めて肩を軽く叩くと、律儀に深々と頭を下げた。
「他に何かお手伝いできることはありますでしょうか」
「あー…………いや、」
そうしている間にも、開いている扉から水の跳ねる音が響いてくる。
「このまま俺が見てるわ、残ってる奴全員、今日はもう帰投しろ」
「……は、承知しました」
爪の先ほどの僅かな躊躇いが、抑揚のない言葉から感じ取れた。流石に太宰の部下だけある。相対した相手に心の内を悟られないようにする、感情を抑えた話し方だった。
俺への信頼が無いという訳でなく、自らの仕事を遂行できないことへの戸惑いだろう。
「心配すんなって」
出来た部下にかける言葉はひとつだ。
「この程度でどうにかなる柔な首領じゃねぇって知ってるだろ」

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すぅ、と深く煙を吸い込む。肺いっぱいの紫煙を身体の底に溜め、ゆっくりと吐き出した。ふと壁に預けたままの背中が汗ばんでいることに気づいて、ジャケットを雑に脱いだ。ベッドの上に適当に放り投げて、再びトイレの前へと戻る。先程と状況は変わらず、太宰が胃をひっくり返す音と、自分の吐き出した紫煙が部屋に満ちていた。

港町横濱の裏社会を取り仕切る男。只でさえ人の目を引く容姿に加え、一級のスタイリングによって、会場の人間の視線を太宰はその身に集めていた。今日の夜の為に仕立てられた深い艶のある黒のスリーピース・スーツに、襟元から覗く包帯のコントラストとアンバランスさ。
愉快なもんだなと思う。眩いほどの煌びやかな大広間で談笑し、客の間をひらひらと舞うように会場を歩いていた男が、今は這いつくばってげぇげぇと汚く嘔吐いている。便器のふちにかかった指は陶器と同化しそうに真っ白だった。
なんつーか、そう、これは
「等身大?」
「く、ぅ……がはっ、ぁ………」
口をついて出た言葉に返事をするみたいに、太宰が再び嘔吐した。そして激しい咳に変わる。
「げほっ、げほ、う、ごほっ、げほ」
当然の如く、太宰は止まらない吐き気や頭痛、喉を胃液が通る気持ち悪さ等々で苦痛を感じているだろう。慣れているとはいえ苦痛であることに変わりはない。一般論としてこの様子を可哀想だと思うのだろうが、そんな感情を此奴に抱くことはない。
ただ何故だか、心の隅に妙な安堵があった。

背後に立ち、冷えたペットボトルをぺしりと頰に当ててやった。
「一気に飲むなよ、ひとまず口の中濯ぐだけにしとけ」
太宰はゆっくり時間をかけて、俺を見上げる。地球の重力に今にも負けそうなからだ。肩は細かく震えていて、顔には眉間に深いしわが寄っている。手は便器の縁を握ったままだ。
「まだ吐きたいなら構まわねぇけど」
「……やさしくしてよ」
「してやってる」
一気に飲めば、冷えた水は胃を強く刺激するだけだ。太宰自身分かっているだろうが、食道を早急に濯ぎたいほどに気分が悪いということだろう。

「してない、」

よく回る口が短い言葉しか吐き出さない。思わずため息が出た。息を吐くついでに膝を折って、太宰と目線を合わせた。が、いまひとつ目のピントは合っていない。
「ボトルのキャップを開けてくれって素直に頼めばいいんじゃねぇか?」
「…………」
だんまりを決めこむ太宰の顔は相変わらず蒼白なままだ。視線が交わっていても視界が共有できていないのは、シンプルにストレスだと思う──ああそうだ、この男が首領になってから、ずっとそうだ。
目的を明かさない。俺だけでなく、誰にも言うつもりがない。得体の知れない『何か』を飲み込んだまま、此奴の望む目的の為に日々執務室に篭っている。そして「隠していることがあること』を俺に隠しはしない。太宰は俺が気づいていることを知っているだろう。極めて悪質な、澱みを纏った男──それが太宰治だ。

「なぁ、このまま背中叩いて口ん中に指突っ込んで出すもん出させても構わねぇけど」
そう言い終わる前に、太宰の肩がずるりと壁を滑った。いつのまにか、目蓋は固く閉ざされている。
あ、落ちたな、と理解して、先程よりも重くなった身体を抱え上げた。身体の中には何も残っていないというのに。

「……中のもの全部、吐き出したらいいのにな」
俺の独り言に返事は無かった。