It’s pouring.

太が織の前で吐く話。推しの嘔吐はいくつあっても良い!


 

「来なかったな」
二つ折りの財布から何枚かの札を取り出しながら、織田は坂口に声をかけた。
「大きな取引があるとは聞いていましたが、難航したのかもしれませんね」
馴染みのバーに集う夜は、別段連絡を取り合わない。ふらりと立ち寄った時に友人がいれば、何杯か飲み交わしている。
「太宰君に限って、そんなことはないかもしれませんが」
「そうだな」
坂口自身、有り得ないだろうと思いながら口にしたのだろう。織田は頷いて同意した。

地上と続くドアを開き、軽く手を振って安吾と別れた。
秋口に差し掛かる時分、冴えた空気に外套の合わせを寄せながら帰路に就く。
ふいに、路地に吹き込んだ風に面を上げる。明かりの乏しい路地裏は、一見したところ勝手口やゴミ箱が並んでいるだけのように見えた。ありきたりな風景━━だが耳に届いた微かな違和感を拾い上げる。
おそらく人の声だ、と思う。
夜も更けた繁華街の裏通り、加えて今日は祝日前の木曜日だ、酔っ払いの一人や二人、転がっていても珍しいものではない。数瞬、通り過ぎるか否か考えた━━が、聞こえたその声色が、聞き慣れた声のような気がして、前に出しかけた脚をぐるりと方向転換した。

「っぐ、う、」
細切れの、何かを詰まらせたような息が、ぽつぽつと漂っている。足を声の方に進めれば、比例するようにその声がはっきりと聞こえてくる。早る気持ちを抑えながら近づいていく。
壁に手をついて蹲る黒いかたまりが視界に入った。その瞬間に、喉につっかえていた違和感が形を持って織田の胃の中に転がり込んだ。間違えようもない。歳下の友人、かつ所属する組織の幹部でもある男が、そこに居た。

嫌に不規則な息遣いに肩が上下している。壁についた腕は震えていて、太宰自身の身体を支えられているのか怪しいほどだった。どう見ても平時の様子ではないが、意識して平坦な声で呼びかける。
「太宰」
一呼吸置いて、声が返ってきた。
「おだ、さく」
ぜぇぜぇと上がった息の合間に名前を呼ばれた。ゆっくりと顔が上がり、焦点のぶれた視線が織田を捉えた。
「ど、したの」
薄く微笑みながら織田を見つめる表情は、何もかもちくはぐで、下手なドラマを見ているようだった。
「それは俺の台詞だと思うが」
「あ、は、それも、そだね……」
近距離で顔を確認すると、太宰の血の気の薄い顔がいつにも増して白く、ありきたりだが紙のようだと思った。
「手伝う」
地面に落ちている吐瀉物は大した量ではなかったが、まだ吐き気は治まっていないらしい。吐けるのなら吐き切ってしまったほうがいいだろうと、織田は手を伸ばす。
「い、いい……いいよ……だいじょう、」
織田が何をしようとしているのかすぐに理解した太宰は、薄い笑みをそのままに、立ち上がろうとした。が、上手くいかなかった。
突然、バッと口に手を当てて黙り込む。空いた手で、織田を遠ざけるようにぐいぐいと押し出してくる。だが大した力もなく、簡単にねじ伏せてしまえる程度のものだった。
そうしているうちに太宰の顔はどんどん青ざめていく。気持ち悪さに抗う必死な表情に、いよいよまずそうだと察する。
素早く背後に回り、肉付きの悪い背をさする。骨張っていて撫で辛いほどだ。
撫で始めるとビクビクと震え上がる身体。悪寒が走るのはいつだって気分の良いものではない。
「っ……う、はっ、ぁ」
喉元まで迫り上がっている胃液を出させる為にさすり続けたが、細かに荒れた息を吐くだけで、太宰は上手く吐くことができないようだった。不審に思い顔を覗けば、全身に力を入れて、吐き気を堪えていた。先ほどまでの笑みも失われている。悩んでいる時間はないなと、織田は意志を固めた。
「先に謝っておく、すまない」
「ッ?!」
太宰に有無を云わさず、僅かに開いた唇の隙間に指をねじ込んだ。そのまま舌の奥を指の腹で押さえる。
「やぁ、め、ゃだ」
言葉に成りきれない音を口の端から溢す。どう見てもこのまま放置しておくほうが具合が悪そうだった。
「大丈夫だから、力を抜け」
「や…………」
押さえつけすぎないように気をつけながら、少しの力を込めて喉を広げるように指を押し込んだ。途端、薄い身体がビクッと大きく跳ねる。
「げぇっ、ぐ、はっ…かはっ……!」
すぐさま指を口から抜いて、激しい勢いで吐く太宰を支えながら背をさすった。板の上の魚の様に跳ねる身体を、落ち着かせるためにただ撫で続ける。波が収まり、ひゅーひゅーと細い息遣いに変わっていく。
多少は落ち着いただろうかと顔を確認すると、閉じかけた目蓋の奥、瞳に薄い水が張っていた。
「おだ、さく」
「少しはましになったか?」
「ん……すまない、ね……ごめん……」
眉尻を下げて酷く申し訳なさそうに云う太宰を、織田は理解できなかった。この程度の懐抱、大したことはしていない。
何か返事をしなければと思い巡らせているうちに、太宰の身体からかくんと力が抜けた。とっさに抱え上げる。
脱力した人間の身体はもう少し重いはずなんだが、とひとりごちる。一先ず水を飲ませたいなと、抱え上げ直し改めて夜道を歩み始めた。