平凡な話をしよう

 朝というには遅く、昼には少し早い時間。ゆったりとしたこの時間は貴重だ。
「今日は休みなんだっけ」
 ふわと欠伸をこぼして、猫みたいな伸びをして、ただでさえ細い体躯がさらに細く引き伸ばされた。これでも未だましになったほうだが。
「ああ。顔洗ってこい」
「はーい」
 腰をさすりながら、ペタペタと小さな歩幅で廊下の奥へ消えていく。スリッパを履かないのはいつものこと。
 暫くして、太宰がキッチンへ戻ってきた。冷水でようやく目が覚めたらしい。重たげだった目蓋が、幾分か軽さを取り戻している。
 その姿を確認して、手元に視線を戻す。ガラガラと、ボウルにぶつかる硬質的な音がキッチンに響いた。
「何の音?」
 背後から中也の手元を覗くように立つ。
「はまぐり」
 貝殻を擦り合わせて洗う音だ。砂抜き済み、と続ける。
「じゃあ酒蒸し?」
「いや、量が少ないから汁物にでもするかなと」
「すまし汁かぁ」
 起き抜けのふわふわとした声。貝特有の、うまみが溶けたつゆの香りが鼻に抜けた心地がした。
「いいね」
 ん、とひとつ頷いて、水からはまぐりを引き揚げる。
「三つ葉も残ってるから、決まりだな」
 冷蔵庫を開けて、目的のものを取り出す。
「はい、じゃあ手前はこれ」
 ボウルに盛られた絹さやを手渡した。
「え、私がするの?」
 メンドウクサイヤリタクナイと顔に書いてある。
「手伝わねぇ奴に食わせる飯はない」
 鼻を鳴らせば、渋々というふうにボウルを受け取った。
「君は昔さ、肉があれば良い、ボリュームがあれば良いみたいな食生活だったじゃない」
 ダイニングの椅子に腰掛けながら、爪先で絹さやを摘み上げている。緑色の鮮やかな皮越しに、少し遠い目をした太宰の瞳が見えた。
「そうだな」
 十代の頃は何よりも空腹を満たすことが最優先だった。『羊』に居た頃は、栄養バランスとかそんなことを考えている暇も知識も興味もなく。安さと手早く済ませられる利便さから、手に取るのはジャンクフードばかりだった。
 その後、紅葉の下で仕事をし始めてから料理や質の良い食事を覚えた──というよりは叩き込まれたが──彼女は、三食きちんと栄養を取らせることに随分注力していたような気がする。
 自分で稼げるようになってからは、部下を連れて焼肉を食べによく出掛けた。美味い肉は部下を景気づけるのに適していた。何しろ二十代、常に飢えていたし、美味い肉がとにかく好きだった。
「それが今や」
 ぱんと大袈裟に手を叩く。
「ご覧あれ、この家庭料理」
 ガスコンロに並んだ鍋やフライパン、テーブルの上の様々な料理や下拵え中の素材を順に手で示す。
「随分と大袈裟なことで」
 太宰の態とらしいパフォーマンスがばかばかしくて、くつくつと肩を揺らした。
「私たちもすっかりおじさんだねぇ」
 フルコースとか焼肉とか、胃が重くて無理だものと、苦い顔を見せる。
「そりゃ三十五も過ぎればな」
「……そうは云うけれど」
 眉間にしわを寄せて、むすりと口を尖らせる。
「君は年齢に見合ってないでしょう」
 奴にしては珍しい返事に少し驚いて、ぱちぱちと二度瞬いた。眉間に寄せている皺は深い。
「私なんて身体はぼろぼろ、オジサンまっしぐら」
「手前が体力ないのはガキん時からだろ」
「此の間は敦くんに『太宰さん、白髪が一本生えてますよ』なんて云われてさあ」
 そりゃ最高だと、背を丸めて笑う。それを見て「むかつく」と云う太宰の顔も笑っていた。
 一頻り笑ってから、ふっとひとつ息を吐いて云う。
「……ま、そうでもねえよ」
「うん?」
「年齢」
 使い終わったボウルを手早く集めてシンクヘ置く。会話をしていようが、調理の手は止まらない。もう何年もこうしている。
「流石に老いは感じてる」
「なんだか、ますますオジサンめいてきたね」
「そうだな」
「おや、あっさりとした返事」
「若い奴らには敵わねぇってこと」
「よく云う……次期首領とも名高い中原中也ともあろう男が?」
「首領にはならねぇよ」
「君がそう云ってもねえ、周りが放っておかないよ?」
 実際、そういう声が挙がっていることは把握している。今の組織の環境を客観的に見れば、少なからず自覚もしている。
「未だに前線に立つし、生傷は絶えないし」
 すうっと、静かに目尻が鋭くなる。昨晩見つけたであろう新しい傷を、俺の服の上から視線で撫でている。一昨日、仕事で少々ヘマをして怪我をした。もちろん大した怪我ではないが、目敏い奴にはすぐ気付かれた。
「なんだよ、ご不満か?」
「いーや、別に」
 絹さやの先端をぽきりと折って筋を引っ張り上げると、途中でぷつりと切れてしまった。仕方なしに、さやの反対側から筋を摘まみ上げる。
「それこそ手前に云われたくねぇよ」
ぎし、と椅子が悲鳴を上げる
「私は裏方に徹しているよ?」
「ま、端からみてりゃあな」
 手前も変わってねぇよ、と心の内で少し笑う。
 (俺の生傷ひとつに目くじらを立てる程度には)
「はい、筋取り完了」
「ん」
 ボウルを受けとる。太宰がのんびりと筋取りしている間に粗方は済ませた。あとは仕上げのみ。
「そこの柚子、こっち寄越せ」
「はいはい。わ、良い香り」
 手に取っただけで、ふわりと漂う柑橘の爽やかな香りを感じられた。
「こんなに沢山もらったのかい」
「余るから今晩は柚子湯にしようぜ」
「それは楽しみだ!」
 途端に悪巧みの顔が弾ける。
「……手前、なに考えてる」
「中也の傷にゆずの皮をすり込んであげようと思って」

 想像したら、なんとも言えない冴えた痛みが背筋に走った。言わずもがな此奴ならやりかねない。柚子湯は延期確定。

・・・

予め冷やしておいた菜の花のお浸しを冷蔵庫から取り出す。おろし金で柚子の皮を軽く削って振りかけると、爽やかな香りが皿の上に漂った。絹さやは軽く茹でて火を通したものを肉じゃがに加える。それぞれの茶碗に白飯をよそって、太宰に渡した。既に食卓に並んでいる汁椀からは、温かな湯気が昇っていた。
「いただきます」
「はい召し上がれ」
 炊き立ての白米に、肉じゃが、はまぐりのお吸い物、菜の花のお浸し。彩り鮮やかで春の匂いがする食卓になった。
 両手を合わせるのもそこそこに、素早く箸に持ち替えた。まずは汁物を熱いうちに楽しみたい。
「これは立派なはまぐりだ、ぷりぷりだよ」
 するんと貝殻から外したはまぐりを箸でしっかり捉えて、立ち昇る湯気とともに香りを口へ放り込む。しっかりとした厚みを感じる弾力に、じわっと溢れる貝の旨味が舌の上に広がる。火の通り具合も完璧だ。三つ葉の鼻に抜ける青い香りが良いアクセントになっている。はまぐりから良い出汁が出て、いくらでも飲める汁物になった。
 中央の大皿に鎮座する肉じゃがは、昨日の残り物。しかし今日加わったばかりの絹さやが鮮やかな緑色をして、肉じゃがを彩っている。
 出汁のしみたじゃがいもは角が落ちてほとんど丸い。箸を入れるだけでほろりと崩れる。それを丁重に持ち上げて、口の中へ。二日目の肉じゃが故に、玉ねぎもとろりと溶け、今にも形を無くしそうだ。煮汁の旨味と、野菜の甘みが舌の上で溶け合う。その旨味が無くなる前に白米を頬張った。
 太宰のこだわりで、肉じゃがに入れるのはたいてい豚肉だ。牛肉派だったが、豚肉も悪くないもんだと思い直して何年も経った。長い時間を共に過ごして、随分と味覚が似通ってしまったらしい。
 合間にお浸しをつまむ。菜の花の軽やかな苦味が美味いと思えるようになったのは、ここ数年のことだ。先程振った柚子がいい味を出している。
「私はさあ、中也のごはんには逆らえないんだなって」
 肉じゃがをもぐもぐと咀嚼して、やや間があって、さらりと云った同居人の顔は穏やかなものだった。
「……え、なに中也、その顔」
「どんな顔だよ」
「鳩が豆鉄砲を食ったような」
「……なんで手前が顔赤くしてんだよ」

 相手の思考が読めすぎるのは、時に考えものだ。

・・・

珈琲だけは、太宰が入れたものが美味いと思う。食事の後、気が向いたら時折珈琲を入れる。今日はどうやら気が向いた日らしい。
 「味付け」という行程が無いぶん、余計な事故も起きない。マグカップに口をつけて一口。今日も変わらず良い味をしていた。
「春が終わる前に、筍ご飯が食べたいな」
 少し牛乳を足したマグをスプーンでかき混ぜながら、次の食事の話をしている。数年後の希望とか、もっと遠い未来とか、そんな大袈裟なものではないけれど、気負いなく話をできる時間は出来るだけ大事に抱えておきたいと思う。多分、向こうもそう思っている。
「俺はそら豆だな、尚且つ茹でじゃなくて焼き」
「あー良いね。美味しい塩で食べたい。あと熱燗!」
「日本酒があるならホタルイカも要るだろ」
「それはずるいよ」
 共同作業と実感の積み重ね。それをずっと繰り返してきた。同じ組織に属していた頃も、道を分かれた若い頃も、住まいを同じくするようになった今も。
 決して自分らしくはないけれど、こういう話を明日もできれば良いと、小さく願った。