古い校舎の廊下は足音が良く響く。それが誰の足音なのか判断できてしまう程度には。
ただ、常なら静かな足取りであるはずなのに、今日は僅かに荒々しい。その時点で嫌な予感に胸がざわめく。足音を消して歩くことだってできるというのに。その歩みが確実にこの部屋へ近づいて来て、その予感がずしりと重みを増した。
がらりと勢い良く開いた引き戸から現れたのは、二つ年上の先輩だった。そして伏黒の(一応)恩人──兼、恋人。
「めーぐみ」
サングラスから覗く、冷えた青色の瞳に射抜かれる。
「セックスしよ」
嫌な予感は形になって目の前に立っていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「アンタね、っ、此処どこだと思ってんですか!」
「んー? 学校の医務室」
目にも止まらぬ速さで押し倒し、伏黒の服に手をかけて性急に事を進めようとする。包帯が巻かれていない左手は、言わずもがな五条に縫いとめられた。
「別棟に宿直の人がいるけど、離れてるから気にしなくて良いよ」
淡々と述べる声は、文字通り何も気にしていない。
「そういうことを言ってるんじゃない、五条せんぱ、ちょっ、待ってください」
「聞かない」
伏黒の言葉に返事はするものの、まともな会話にが成立しない。服の下へ忍び込ませた手のひらで、肌を弄る手を止めない。医務室に入って来て、目が合ったのはそれっきり。五条の視線は確かに伏黒を見ているはずなのに、どうにもピントが合っていない様だった。薄暗い影が眼に落ちて、いつもの眩さも、透き通るように澄んだ色合いも、霞んでいてよく見えない。
勝手をさせてたまるかと自分の身体を捩るが、期待できるほどの効果はない。恋人だろうが先輩だろうが、同意も無しに事を運ぶのは許せない。雰囲気に流されてしまうこともある、それは否定できない、けれど。どう見ても、普段の調子からズレた目の前の男を止めなければいけないと、本能が叫んでいた。
「ねぇ恵、こんなところも怪我してるの?」
服を捲られた。脇腹を覆うように貼られた、手のひら大のガーゼを、ぐっと上から押さえ付ける。じわ、と血が滲む感覚に思わず顔を顰める。本当に趣味が悪い。怪我に追い討ちをかけるか普通、と喉から出したかったが、言葉の形も保てず呻き声しか出なかった。
「……ッ、く」
「弱っちいね、恵は」
首元に無理やり顔を寄せて、噛み付かれる。耳に届くのは、ぴりと皮膚の裂ける音。
「いっ、つ」
首筋に触れた五条の肌はひどく冷たかった。冬の外気に長く晒された匂い。ひんやりと底を這う冷たさに、悪寒が走る。いつもの匂いじゃない、と鼻が嗅ぎ分けた。
──嫌だ、と五感が訴えてくる。
「あっ、う、やめ」
瞬く間に五条の手は胸まで伸び、乳首をくるりと撫でた。びくりと大きく震える。抗いたい状況で、自分の身体に熱が灯ることが憎らしい。
伏黒は体術では五条に敵わない。体術どころか、術式も、持って生まれた素質も、練度も、何もかも、最強と謳われる五条と手合わせして、一度として勝ったことはない。
子供の頃からそうだった。いつだって彼は当たり前に強い。自分が負けるのはいつものこと。どこまでも自分勝手で、唯我独尊を体現したような人。いつものことだ、慣れている。
それでも今の、この状態の五条を許せなくて、彼に身体を許す理由が何ひとつ無くて、全身で力一杯拒否する。
大した抵抗にならないことは分かっている。それでも、抵抗をしないわけにはいかない。その必死さを感じ取ったのか、五条は吐き捨てるように言った。
「恵じゃ俺に敵わないんだから、黙ってじっとしてろよ」
その言葉を耳にした瞬間、頭の中で、ぷつんと、張りつめた線が弾けた音を聞いた。五条に触れられて溜まった身体の熱が嘘のように引いて、代わりにその熱は怒りの感情をぐらぐらと沸騰させた。
「………………無下限解いてください」
「え」
今の自分は相当凶悪な顔をしている気がする。多分。五条の表情から察するに。
「早く」
なし崩しに身体の関係を持って、紆余曲折の末付き合い始めた頃、一つ約束をした。常時発動している無下限呪術を、二人きりの時は解除すること。
約束を違えていることは流石に本人にも自覚があったらしく、少しの沈黙の後に術式は解かれた。解かれた機を見逃さず、最速で決め込む。
「いィ加減にしろ!!!!!」
ゴツッと、骨同士のかち合う鈍い音が響く。伏黒はただひとつ自由に動かせる自分の頭で、五条の頭部を思いっきり殴った。振りかぶった勢いで、五条のかけていたサングラスが床へ吹っ飛んだ。どうせ本人にはささやかなダメージにもならないから、サングラスくらい犠牲になってもらわないと困るなと、床で沈黙したサングラスに思いを馳せる。
「馬鹿にするな」
ああクソ、心底腹が立つ。腹の底で溶岩のような重く禍々しい怒りが煮えている。ベッドの上で身動きの取れない身体が怒りでぶるぶると震えだした。殴った頭が痛い。呼吸する息はぜぇぜぇと荒くなる。包帯でぐるぐる巻きの動かない手足がもどかしい。
どうしてこの人はこういう方法しか選べないんだ。
身体はまともに動かないけれど、声が出せることが唯一の救い。ちゃんと伝えたい。
「五条先輩」
サングラスが無くなって露わになった双眸を正面から見据える。感情をどこかに落としてきたみたいな顔だ。小さな子どものようだと思った。
「おれは、アンタの話が、聞きたい」
怒りで昂る呼吸に語気が強まる。
「話したいことが、っ、あるなら」
ぜぇぜぇと波打つ息に、どうしても声がうわずった。
「ちゃんと、口にしてください──そうじゃなきゃ、俺は、分からない」
今日の仕事は単独任務だった。事前調査によれば3級の呪霊が何体か、という話だったが、蓋を開けてみれば2級だった。時折あることだ。呪霊はきっかけがあればぐんと成長する。加えて色々とタイミングが悪かった。補助監督は最近赴任したばかりで経験が浅かった。騒ぎが大きくなってしまい、人払いがスムーズにいかなかった。反転術式が使える硝子さんは珍しく遠征中で、負った怪我をすぐに治癒してもらうことも叶わなかった。
そうして、命を落とすほどではないものの、なかなかの重傷で学校へ帰還したのが数時間前。包帯とガーゼに消毒液がたっぷりと染み込んだ怪我人の出来上がり。
「……ごめん」
先程までの剣呑な空気は霧散して、五条は拘束を解いて身体を離した。ほんの少しだけ下がった彼の眦に、伏黒は詰めた息をようやく吐く。
「謝って済むなら世話ないんですよ」
マジ痛ぇ、と先程押さえつけられた脇腹を見やる。これは後でガーゼを取り替えないといけない。
「ほんと、ごめん。恵の頭突きで、ちょっと、目が覚めた気がする」
ぼそりと呟かれた言葉はひどく歯切れが悪かった。
「帰ってくるのは明後日の予定でしたよね?」
この人のことだから、任務自体にはさして手こずることなく終わらせたのだろう。とはいえ地方への遠征は、移動だけで多くの時間を必要とする。どう見積もっても帰還が早すぎる。
「ん、いや……恵が怪我したって聞いて……速攻で終わらせてきた」
指で頭を掻きながら五条は言った。嗚呼この皺寄せは伊地知さんに行ったな、と考えるまでもなく分かってしまい、頭痛がした。明日謝っておこう。でもそれは明日。今の最優先は目の前のひと。
「五条先輩、こっち来てください」
力を振り絞って腕を前へ差し出す。これ以上はこちらから動けないので、五条に委ねるしかない。離れた身体の距離をもう一度埋めたかった。普段ならこんなこと、しないというのに。
五条はぱちりと瞬きを一つ落として、腕を見て、伺うように顔を見て、うん、と呟いて、空いた間を詰めて座る。そうして腕を伸ばして、伏黒にぎゅうと抱きついた。
身体がくっついたことを確認して、広い背中をぽんぽんと緩く叩く。今度は伏黒が首に顔を埋める。互いに黙ったまま、ゆるゆると撫でて、体温が移る頃には、冷たい匂いは少しましになった。
「……俺は弱いです。アンタにも勝てない。それでも今ここに居るのは、帰ってきたからです」
言い聞かせるみたいに、とんとんと背中を柔く叩く。自分より体格の大きな男の背中を撫でるのは、側からみれば滑稽なのかもしれない。でも五条が身体を寄せて来てくれたから、それで充分だった。
はぁ……と、長い長い溜め息。その息と共に脱力した五条の身体の重みが肩に訪れた。ふわふわの髪が首筋にくすぐったい。
「……硝子が居ないタイミングでさぁ」
「それは仕方ないでしょう。硝子さんだって任務があるんですし、常に近くにいるわけじゃない」
「わざわざ狙ってるんだよ」
どうせまた上の連中が、傲慢で頭でっかちの耄碌野郎、と、他人に聞かせられない憎まれ口を叩く。
「俺への嫌がらせが、恵に向かうのが嫌なの」
結果として怪我を負ったのは伏黒自身の責任であっても、そう捉えてしまったら許せなくなったのだろう。
「僕も反転術式が恵にかけられたら万事解決なのにさ」
ひゅーっひょいって、と、魔法のステッキを振るように、人差し指を高らかに振ってみせる。
「あー、できなくて良いですよ」
「なんで?!」
がばりと身体を離すその驚きようがなんだか可笑しくて、ふっと思わず声を溢した。
やろうと思えばなんでもできてしまう強いひと。でも出来ないことがいくつかあるくらいの方が、人間らしくていい、と思う。
こうして真っ先に自分の顔を見に来てくれるなら、それで、と思う自分の心が、少しずつ、柔らかく歪んでいることには気付かないふりをした。
了
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