[置いてけぼりの理論]
「おい、ンなとこで寝てんじゃねぇ」
足を蹴られた、ような気がする。よくわからない。鼓膜を揺らす音がやけに遠い。皮膚の感覚がにぶい。ぶよぶよにふやけた皮を纏っているようだ。頭には靄がかかっている。酷い霧が立ち込める工場街をあてもなく歩いた日を思い出した。
「……」
もう一度、足に何かがぶつかった。ぶつかった?否、ぶつけられたのだ。散らばった意識が集められる。硬くて少し尖ったもの。多分、靴の先で蹴られている。
「ん、」
返事をすることさえ煩わしい。一歩も動きたくないし、そもそも立ち上がりたくもない。と云うよりそうすることができなかった。
地面に溜まる温かい液体と反比例するように冷えていく身体のコントラスト。最初はくっきりと境目を感じ取っていたのに、その感覚も曖昧になって、意識が駆け足で逃げていく。
己の思考を追いかけないでいるというのは、私にとってあまりにも甘美で魅惑的な行為だ。いつ何時であれ、意識せずとも私の頭は数手先を読むように作られている。それは『習慣』という言葉で表現では足りないくらいの、もっとずっと、骨の髄まで染み込んだもの。いつからだったか、気付けば私はこういう造りになっていた。悲しいことではない。そういうものだから。そういう事実。
只々、己の思考が停止に向かうことが興味深くあった。考えなくて済む、考えることが無くなる、その地平はどのような世界なのか。
──あゝ、指の一本を動かすことも難しくなって来た。だんだんと重くなる身体と脳をこのまま捨て置いて、死を迎えられたら、それはなんと幸福なことだろう。強く焦がれ続け、今か今かと待ち望んだ瞬間。至上の喜びに胸が高鳴る。いや、心臓と肺は今にも動きを止めてしまいそうだけれども。
可笑しくて、ふふふと笑みが溢れた。呼応するように肺がひゅうひゅうと震える。
「気色悪すぎんだろ手前……」
心底うんざりしている声だ。何度も何度も耳にしてきた声。
赤い水溜りを、なめらかに磨かれた黒の革靴が闊歩するさまが目に浮かぶ。靴音は耳のすぐ側で音を止めた。
ふわりと、重力に逆らう感覚がした。それからすぐに、腕の片方が重力に負けた。がくんと肘から下がぶら下がる。(ああこれは)血溜まりの中から掬い上げられている。
どうやら彼に担がれたらしい。
「汚ねぇわ重いわで最悪だな」
独り言にしては大きな声だ。
「わたしのことは、おいていってくれて、かまわないよ」
息が切れる、舌と唇が上手く動かない。気道がぺしゃんこになったみたいだ。ひゅーひゅー、ぴゅうぴゅう、馬鹿みたいな音が喉から出てくる。それでも私は、中也の言葉に応えなければならない。
「おーおー、喋れる元気はあんのか」
「せっかく、しねそうだっ、た、のに」
こちとら声を絞り出すのに必死だというのに。
「それは残念だったな」
中也の声は軽やかだ。お気に入りの葡萄酒をワインセラーから持ち出してくる時みたい。落とさないようにしっかりと身体を支えてくるものだから、腹立たしいったらない。
「むかつく……」
もう、目蓋が、ずるずると落ちてくる。
もう無理だ、目を開けていられないとそう思ったその時に、
「おやすみ」
そんな声が聞こえた、気がした。否、確かに聞いた。その手触りが余りにも柔らかくて、綿毛のようで。その軽やかさと反比例するみたいに、私の意識はずぶずぶと、血と泥を纏った身体ごと、中也に沈んでいった。
了