ひとり睡眠アンソロ

[上司命令]

「橘君、これ蒼井さんに渡して」
「そっちの君たちはA29に移動、銃火器室の機材一式も一緒に。至急」
「陽動部隊からの連絡は未だ? そう……じゃあ君が連絡係を引き継いでくれ」
命ぜられた部下が慌ただしく部屋を出て行く。指示を出す間も、太宰さんは相手の顏を見ていない。手元の資料を見たまま的確に素早く。淀みのない指示。

その様子を横目に、冷めてしまった紅茶を下げる。少し震えた指がティーカップにスプーンを当てて、陶器特有の高い音を鳴らしてしまった。未だに緊張感が抜けず、手元が狂う。失礼しましたと小さく呟いて、脇へ下がった。俺の言葉なんて耳にも届いて居ない様子で、先ほどと変わらず部下に指示を出していた。

太宰幹部の側近として仕事をするようになって2ヶ月。これが毎日のように見る光景だ。幹部になった彼に付いて欲しいと、首領直々の指示だった。なぜ俺が、などという返答は有り得ない。
「君なら大丈夫だよ」とにっこり笑う首領の考えなど自分に分かるはずもなく、静かに部屋を退室した。
ポートマフィアに入って数年、下っ端ながら細々と仕事をしてきたが、足と声があれ程震えた時間はなかった。この組織で生きる者は多けれど、首領の部屋に入り面と向かって話す機会がある者はひと握り。一生のうちに一度だって有ることではないのだ。銃を扱う仕事をこなし、そこそこの死線も超えてきたつもりだった。その恐ろしさに匹敵する、あるいは越える程の──。
駄目だ、集中しろと自分を叱責する。僅かな散漫も、この部屋では許されない。首領に次ぐ組織内での権力者なのだから。
気を引き締め直して、部屋の隅に立つ。こんな時太宰さんは、心の奥底まで見透かしたように此方へ視線を流すことがある。叱りの言葉を発することはないが、その一瞬の視線に肌が粟立つ。
まずい、と思ったが今日はその視線がなかった。微かな違和感。不躾な視線にならないように、そっと幹部の様子を眺めてみる。
太宰さんが手元の書類を見つめながら瞬きをする僅かな時間、目を閉じている時間がほんの少しずつ長くなっているような気がする。長い睫毛の瞬きが、スローモーションに見えてしまう程度のもの。
瞼が重いといえばそうなのだが、眠いとか、そういうものではないような。
そういえば、特にこの数週間はかなり根を詰めて仕事に取り組んでいるような気がする。そうか、休んでいる姿を見ていない。
もしかして疲れていらっしゃるのか、と思いかけた瞬間だった。

バンと勢い良く扉を開く音に続いて「邪魔するぞ」という声が室内に響いた。
中原さんだ。帽子を目深に被っていたが、すぐに分かった。準幹部と名高く、同期でも憧れている者が多い。もちろん同世代なのだが、竹を割ったような気性で戦闘になれば腕も立ち、付き従いたくなるような人柄だった。
確か僻地へ遠征に出ていたばずだ。それも一ヶ月程前の出立。

「おい糞太宰」
「煩いよ話しかけないで」
顔を合わせれば喧嘩の絶えない2人だが、この返答、太宰さんの口調にまるで遊びが、ない。こんなことは今までになかった。どこまでも平坦な声に表情がぴくりとも変わらない。

「仕事に集中してるから話しかけるなって? どの口が」
鼻先であしらう。
「さっさと自分の部屋に戻りなよ」
地を這うような太宰さんの声が鼓膜を揺らした。執務椅子の上で書類を手にしたまま、微動だにしない。このままいつもの喧嘩が始まってしまうのかと、冷や汗が背筋を流れる。いや、いつもとは違うのか。中原さんは普段となんら変わらないように見える。やはり妙なのは太宰さんの方だ。余りに端的すぎる物言い……中原さんとの会話では、作戦時を除いてあまり見られない。
退室を促されても中原さんは歩みを止めなかった。あっという間に執務机に回り込んで、太宰さんの掛ける椅子脇に佇む。すっと目を細めて、上から下まで目を走らせる。

「手前、一歩も動けないだろ」

そう云って書類を手から抜き取る。
「資料を持ってはいるが頭に入ってねえ」
首まで支える高さの執務椅子に手をかけて、ガコンと背を倒した彼は、覆い被さるみたいに身体を寄せる。
腕を振り上げた姿を見て、思わず息を飲んだ。殴るか、胸倉を掴むのかと。だが違った。そのどちらでもなかった。
筋張った手が太宰さんの双眸を覆う。目元から、光が消える。

「目がいかれてんだよ」
「……知ってる」
「分かってんなら対処しろよ」
「……君がきたならもういいでしょ」
太宰さんは薄く息を吐き出した。

部屋の隅に居たままで、退室するタイミングを完全に見失ってしまった。居心地の悪さと見てはいけないものを見てしまった後ろめたさに、冷えた汗がこめかみを伝う。静かな部屋の中、ばくばくと自分の心臓だけがけたたましく鳴く。
こんな二人は、見たことがなかった。

「高鳥君」
太宰さんに突然名前を呼ばれて飛び上がった。なんとか返事をする。
「は、」
「悪いのだけど、少し席を外してくれるかな」
そう云われて、返す言葉なんてひとつしかない。
「畏まりました」
今声を掛けて頂けたことに心から感謝した。中原さんの手は相変わらず太宰さんの目元を覆ったままで、表情は少しも見えなかった。でも顔が見えなくて、内心ホッとしている自分がいた。

できるだけ素早く部屋を出る為に、足の裏に力を入れて一歩を踏み出す。
「三時間は戻らなくても良いぞ」
背中を追うようにかけられた言葉は中原さんのもの。
「し、承知しました」

頭を垂れたまま、ドアノブを引いて急ぎ足で退室する。
扉を閉める瞬間に、いつの間にか帽子を外していた彼と目が合った。唇に人指し指を添え、音に出さないでしぃっと口を形作った。それを見た俺はひとつ頷いて、手汗で滑りそうになるノブをゆっくりと引いて、回し、扉を閉じた。

顔が強張る。額の汗を手で力任せに拭う。部屋の前から半ば逃げるような格好で俺は駆け出していた。

音を立てないように廊下を駆けながら、中原さんの静かにしてろよ、というジェスチャーを思い返していた。
ここで生きるためには、上司の命令は絶対なのだ。三時間後に部屋に戻る自分を想像して、なんだか身体が重くなった。