ひとり睡眠アンソロ

[甘えの導入]

カシャンと、錠前の動いた音がした。それから僅かに金属の軋む音。足音は一つも聞こえない。この時間にこの部屋への侵入者、心当たりのある人物は──ひとり。此処のセーフハウスの所在は、直属の部下にも姐さんにも、首領にすら伝えていない。

「起こしちゃった?」
常よりも抑えた、ひっそりとした声が耳に届く。推し量るような声色。暗闇の中で顔は見えないが、声と影の在処へ目を向ける。目蓋を意識的に動かしてやれば、うすぼんやりと立ち姿が浮かび上がった。
「……いや」
問いかけに少しばかり返答に時間を要したのは、寝起きだからではない。まばたき一つ分程度の時間。得難い声を反芻する為に必要だった。
長身の男は、外套の衣囊に手を突っ込んだまま此方をふり返る。
「起きてるじゃない」
ふふ、と軽やかに笑う。響きを抑えた声のままで、部屋に満ちる空気が心地良かった。
「ちょっと忘れ物を取りに来ただけだから」
すぐに出るよと言外に含ませている。
「いま来たところじゃねぇか」
あまりこういう言葉を選ぶこともないが、このまま帰してはいけないような気がした。そもそもこちらに顔を出すときは、寝ていようがいまいが悪質な悪戯を仕掛けるような奴だ、素直に帰ること自体に妙な気持ちの悪さがある。
只の直感のようにも思えたが、いや、それも違う。分かっている。もっと単純な感情だった。もっと近くで声が聴きたい、だけ。

「こっち来い」
「えぇ?」
多分、眉尻がほんの少しだけ下がった、ちょっと呆れたような顔をしてるんだろうなと思う。それでも声は穏やかで、頬を撫でる手つきにも似た、柔らかいものだった。
「いいから」
男ふたりで寝ても十分な程の広い寝台だが身体も端へずらす。右の手でシーツをぽんぽんと叩いた。音で知らせる。手前の場所は此処だと。
それから聞こえたのは、外套の衣擦れ。表情を隠すみたいに片手で顔を覆う。夜目が効く質とはいえ、目も覚めたばかりで、照明の一切を落とした室内では流石に表情までは視認できない。惜しいな、と心中で独りごちる。今の顔は見ておきたかった。
「……勘弁してよ」
「あぁ?」
「君、寝ぼけてるでしょう」
「ん、そうかもな」
駄目押しで、太宰の言葉を肯定する。そうでも云っておかないと素直に寄ってこないだろう。
さぁもう一押し。

「外套、そっちに掛けろ」
顎で脇の椅子を示す。普段なら風呂に入れてから滑り込む寝台だが、その時間さえ今は惜しい。
やっと諦めのついた身体は息をひとつ吐いて、外套から袖を抜いた。
「それも」
浅葱色の石が嵌め込まれたループタイを視線で示す。
「勝手だなあ、もう」
またひとつ小さく息を吐いて悪態をついた。その声色は言葉に似合わない、随分と穏やかで、花弁のように柔らかいものだった。端に腰掛けて、のろのろと脚をシーツの間へ運ぶ。全身がきちんと寝台へ入り込んだ。背中は此方を向いていた。

手を伸ばして背中から抱き竦める。首筋から外の匂いがする、痩身は未だ冬の澄んだ空気を孕んでいる。太宰自身の匂いは相変わらずとても薄くて、淡くて、存在感を善く善く消すためにわざわざ希釈したみたいだった。意図しているのかどうかは今も知らない。問うたこともない。たとえ匂いが薄くても、近くにいればすぐに分かってしまう、嫌でも。
肺の中の空気を丸ごと入れ替えるみたいに、息を吐ききって、それから細く深く匂いを吸い込んだ。
そうして未だ冷たい温度を抱え込んで、もう一度目を伏せる。先刻よりもぐっと近づいて、深度の増した匂いが鼻の奥をくすぐった。
「中也ァ、暑い」
「それは俺も思った」
「君、子供体温だものねえ」
少しだけ強張っていた身体がじわじわと腕の中で緩みだす時間を、ワイシャツ越しに拾い上げる。温度の輪郭が溶けていく。もともとひとつだったみたいに身体がぴたりと合わさって。
「手前が冷たいから丁度良いだろ」
抱き込んで胸元にまわっていた手が、おずおずと上から握りこまれる。その仕草がどうにもじれったくて、広げた指を絡めて繋ぎ直す。そうすれば、今度はずっと素直に指を握り返してきた。
二往復の短い言葉。声が聴きたいと思って呼び寄せたのに、次第に温くなる寝台の中で、心音に耳を傾けていたらどうでも良くなってしまった。望んだ以上の満ち足りた感覚が寝台の中に広がっている。とても、とても目蓋が重かった。
意識が沈む瞬間を狙ったみたいに、太宰が何か呟いた。でも睡魔に抗うことはできなくて──問いただせないかわりにぎゅうと抱きしめ直して、深い眠りの底へ沈んでいった。